長野県スキー発祥100年の歴史
-長野県スキー発祥100周年記念制作-


1本杖スキー講習会風景

高田高等女学校生徒の歩行スキー講習会風景

1911年(明治44年)
新潟県高田市(現上越市)にオーストリア・ハンガリー帝国公使館付武官、テオドール・エードレル・フォン・レルヒ少佐により高田第13師団の陸軍研究員14名に日本で始めてのスキー指導が行われた。
時に1911年(明治44年)1月12日、午前8時に「メテレ・スキー!」(スキーを付けよ)のレルヒ少佐の合図が響き渡った。
まさに日本のスキー誕生の瞬間でした。
1912年(明治45年)

長野県にスキーが伝わる
長野県飯山地方に始めてスキーを伝えたのは飯山愛宕町妙専寺の住職市川達譲氏であります。

明治45年(1912年)冬の1月、高田連隊へオーストリアの武官レルヒ少佐が再び訪れ、一本杖スキー術の講習が行われ、この講習に長野県から飯山中学校(現飯山北高)の体操教師である市川達譲氏や大町中学教員の里見源次郎氏らが参加しスキー術を会得して地域で演示し普及に努めた。

当時、スキーは軍用のために研究されていたが、「スキーは軍隊の専有すべきものでなく広く公開して積雪地の実用に資するべきである」との長岡外史中将の考えから民間普及へと進んでいった。

飯山へ帰った市川達譲氏は翌朝、城山の西斜面を利用して中学校へ向け滑走し、当時の中学生たちに驚嘆を与え「スキーこそ雪国の福音である」とスキー熱は急速に高まった。

その後、飯山町の建具屋、小賀坂浜太郎(現オガサカスキー)・伊村栄蔵(旧イムラスキー)両者が高田でスキー製法を覚え、スキーの製作が飯山の地で始り現在に至っている。

レルヒ少佐による高田練兵場での講習会

斜面での講習会

1912年(明治45年)
飯山に伝わったスキーはすぐさま学校でも採り入れられ、校内にスキー部も創設され、生徒たちにも知れ渡り、野沢温泉出身の生徒達から野沢温泉にも知れ渡り、野沢温泉においてもこの年がスキー発祥と言えます。
1913年(大正2年)
第1回全国スキー大会が高田・金谷山スキー場で開催され、飯山中学選手団が出場
飯山スキー倶楽部、城山でスキー競技会開催
日本スキー倶楽部飯山支部、飯山中で発会式を行う。
この年に飯山小児童のスキー所持者、100人を越える。
飯山中スキー部員この年の2月に高社山に、3月に斑尾山にスキーで登攀する。

この年白馬・神城小学校長丸山新一郎氏、丸山吉雄先生が高田からスキーを購入し、学校の裏庭で生徒に滑ってみせる。白馬地区でのスキーの発祥といえます。

1913年(大正2年)2月に高田市(現上越市)金谷山で開催された日本スキー倶楽部のスキー大会に飯山中学(現飯山北高)の生徒が出場

飯山・城山スキー場における
飯山中学生徒の連鎖滑降

1914年(大正3年)
日本スキー倶楽部長野支部、スキー練習場を市内茂菅に開く。
1915年(大正4年)
飯山中スキー部員、飯綱山にスキー登山を実行。
大日本スキー倶楽部飯山支部、第1回スキー大会を飯山奈良沢で開く
白馬北城小教員、馬場治三郎氏がスキーを購入して子供たちに指導をする。
1918年(大正7年)
飯山で2本杖のスキーストックの使用が始まる
1919年(大正8年)
板倉勝宣氏がスキーで常念岳へ登頂。

旧細野(現在の八方)に始めてスキーが持ち込まれたのは1919年(大正8年)と言われております。
(その後昭和3年に山案内人による「細野山岳スキー倶楽部」を発足し、「細野スキークラブ」を経て山岳を中心としたスキーが根をはやし、発展してゆく。大正から昭和初期の混乱期においても細野を中心にスキー活動を行っており、スキー熱も高まってゆきました。
その後福岡孝行氏の存在によって細野はなおいっそう高度なものへと発展をとげる)

当時の山案内人たち

白馬岳に登る山案内人たち
1920年(大正9年)
飯山中、スキーの権威、小林達也氏を招いてスキー講習を行い、2本杖の普及が進む。

信州山ノ内スキークラブが結成される。
(山ノ内平隠村(上林温泉)に大正2年にドイツ人キンメル夫妻が訪れ、そのときオーストリア式スキーと1本杖を持参して附近の畑や安造地籍、十二沢などを滑り、これが当地方における最初のスキーヤーと言われる。地元の若者たちはこの異様に長いスキーに驚きと深い興味を示し、大正4年頃には地元の青年たちはスキーを入手している。その後スキークラブ結成まで時間を要したのは地元一般住民に普及するまでは時間を要した。)
1921年(大正10年)
板倉勝宣氏が新潟県側から白馬岳へスキー登山。翌月槍ヶ岳へスキー登山を行う。
関温泉笹川速雄らにより蓮華温泉から白馬岳へスキー登山、そして大雪渓を下る。
(当時スキーは登山用に使われ、登る道具としても使用される。その中で滑る醍醐味を見いだしていった)

白馬岳を目指すスキー登山者(昭和2年当時)

乗鞍岳を目指すスキー登山者(昭和5年当時)
1922年(大正11年)
第1回信越スキー大会が上林で開催される
(信州山ノ内スキークラブが結成以来、高田三間スキークラブ、草津町などの協力を得て上信越スキー大会が開催され、昭和8年まで通続13回に渡って桑山地籍(後年国体のリレーゾーンにも使用)、島崎地籍、上林スキー場などで競技が行われた。

大正時代にはまだ志賀高原という名前はなく、発哺に2軒、熊の湯に1軒の湯治宿があっただけである。冬には戸締まりをして営業を停止して、下の沓野部落まで下山し、冬眠生活を送っていたという。

昭和4年に長野電鉄初代社長の神津藤平氏が志賀の山野に着目し、スキー場の開発を主体とした施策を積極的に進める。
和合会から60万坪200平方メートルの無償借地を受け本格的な開発に着手したのであります。
まずそれより1年前の昭和3年に上林温泉の遊園地一帯に渡るスロープに目を付け、ここをスキー場として整備し、志賀高原スキー場開発の先鞭を付ける。

同時に渋〜上林間に電鉄バスを運行し、その後バス路線を志賀高原内部への延長とスキー場開発との一体化をしながら開発が推進される)

早大パーティー、乗鞍岳へスキーで登頂
1923年(大正12年)
野沢温泉スキー倶楽部が創設され発会式が行われる。
(野沢温泉のスキー発祥は日本にスキーが伝わった翌年の明治45年と言われております。野沢出身の飯山中学の学生が最初に地元にシュプールを付けたといわれます。

大雪で閉じ込めらるように、春までの半年は耐えることしか術がない雪国の若者にとって、スキーの爽快感はまさに「人間解放」にも等しく、スキーを通して世界へと視野を広げて行くことになります。

そして今日、長野オリンピックの開催地として世界にその名を連ね、毎年のように国際スキー大会が開催されるまでの歴史については、枚挙にいとまがない程だが、人口5,000人足らずの寒村がやがて日本有数の大スキー場に成長、さらに多くのオリンピック選手を輩出し、大正、昭和、平成と時が流れる中で、野沢温泉の観光攻勢は、このスキーブームと連動して変化してきております)

野沢温泉スキークラブ最初のスキー講習会
野沢温泉では大正12年(1923年)に野沢温泉スキー倶楽部が誕生をする。
その後スキー倶楽部の講習会も行われるようになり、スキー熱が高まっていった。大正の終わり近くに成ると法政大学など大学のスキー部が合宿訓練のために野沢にやってくるようになり、倶楽部の人達もスキー客のために上境駅まで迎えに行き、荷物やスキーを背負って5kmの雪道を歩いて野沢まで上がってくるのが日課となる。


第1回全日本スキー大会が北海道の小樽で行われる。
(長野県からは飯山中学の一行が参戦する。引率者の藤沢璋三氏と富井宣威選手、片桐武夫選手(共に野沢温泉)、佐藤政夫選手(飯山町)、岩崎三郎選手(中頸城郡平丸村)の生徒4人が津軽海峡を渡った。大会場で、内地勢は驚愕した。「距離」とは滑降であるとしてきたのが、会場では登りもあり、平坦地もあり、そしてスタートとゴールが同一地点であった(滑降では考えられないコース設定)。
また飛躍台は20mも飛ぶと言う(飯山では10〜20尺と尺で計っていた)。
信越地域のスキーは重いケヤキ材に足底を固定させるリリエンフェルト式という締め具を用いていたのに対して、北海道・樺太勢は軽いイタヤ材にフィットフェルト式の締め具で、スキーの自由な操作を可能にし、走行中に踵の引き上げが出来た。

大会の運営をめぐって内地勢と北海道・樺太勢とで激しく紛糾したようでした。
種目はレース(1km、4km、10km)・リレー(8km)・ジャンプ・スラローム(テレマークおよびクリスチャニア)の4種目が行われたが、長野県勢はレースの4km出場の岩崎三郎が3着、1km出場の野中久蔵が4着に終わる結果となる。2つのスラロームにも入賞出来なかった。
この競技スキーの全国的交流から、スキー場開発が始まって来ていた長野県のスキー界は大きく変貌して行った。
第1回全日本スキー小樽大会に参加した飯山中学のメンバーたち。

引率者の藤沢璋三氏と富井宣威選手、片桐武夫選手(共に野沢温泉)、佐藤政夫選手(飯山町)、岩崎三郎選手(中頸城郡平丸村)の生徒4人が津軽海峡を渡った。

参加したメンバーたち。
1924年(大正13年)
野沢温泉に固定式のシャンツェが後犬山に建設される

白馬にて山案内人の第1回スキー講習会が開催される

(白馬地区はスキーの普及度は他地方の隆盛に比べてテンポが遅かったと言われております。それは良い指導者がおらず、伸び悩んでいたといえます。そこで外部から講師を招きこれから将来、山のガイドとなる子供たちにスキーの技術を磨かせようと第1回の白馬蕨平講習会が大正13年の1月12日から1週間に渡って行われた。

講師には飯山中学の藤沢璋三教諭、助手は同中学校の富井宣威氏と岩崎三郎氏が同行。受講生は村内から7、8人の他、神城小からも教師が引率して児童が参加した。北城小学校からも大日方訓導が上級生を連れて見学をしている。当時講習生でスキーを持っている者は少なく、他の者は用意したスキーを交代で借りて滑ったという。

ようやく盛んになってきた白馬山麓スキーは神城・北城両小学校で生徒たちの冬の体育に取り入れ、講習会も開かれ多くの生徒が参加し盛会だったと言われております。
大正末から昭和初年にかけては、スキーは完全に小学校の冬の体育に取り入れられるまでに発展しました。

昭和2年の白馬スキー講習会に参加した人達

昭和初期白馬大雪渓を滑る


一方山案内人組合でも北城役場と松沢貞逸氏の呼びかけで山案内人を中心に北城村スキークラブが結成され、山案内人の第1回スキー講習会が開催される、大正14年1月には第2回白馬蕨平講習会が開かれ、山案内人3名と局長、営林署員らが参加した。この講習会のためにスキークラブは寄付を集め、スキー10台を購入している)
1925年(大正14年)
野沢温泉日陰スキー場にも50m級シャンツェが建設される。
第1回野沢温泉スキー大会が開催される。
全日本スキー連盟(SAJ)が創設される。飯山スキー協会が加盟。

飯山に神明が丘シャンツェが完成する(25m級)。

(小樽での大会を契機にこの頃から締め具はリリエンフェルト式からフィットフェルト式となった。スキーもケヤキからイタヤと軽くなり、操作も容易となった。飯山ではジャンプ用のスキーも製造された。滑走面に2条の溝を刻んだ。長さは2m余のスキーとなりジャンプは「尺からメートルへ」と言われて、20m近い飛距離がでるようになった。
昭和4年にノルウェーのヘルセット一行を迎えたとき40m級に改造された。ヘルセットが去るとき「東洋一であろう」と言ったとかで、「世界三大飛躍場神明丘」なる看板(飯山スキー協会)が飯山駅前に建てられたりした。
この時期の国内、国際交流はいろいろな知識を吸収する機会にもなり、その後スキー界の飛躍につながっていった。
1927年(昭和2年)
財団法人「和合会」設立認可 志賀高原の開発が始まる。

菅平スキークラブ設立。
(菅平にスキーのシュプールが刻まれたのは大正の末の頃と言われております。その頃から地元の中に自らスキーの制作をしてスキーを試みる人も出て来ました。昭和2年4月に長野県知事の高橋氏が来山しスキーを楽しまれ、その雄大なスロープに感動し、将来を期待する言葉を残しております。また当時東京帝大医学部付属勤務の矢追秀武氏(皮下に種痘する矢追抗原の発明者で野口秀世賞の受賞者)がこの山里を訪れており、素晴らしい景観と広大なスロープはスキー場として開発するべきとの言葉を述べ、地元のスキークラブ設立の糸口になったと言われております)

早大山岳部員、針ノ木沢雪渓でスキー中に雪崩に遭遇し遭難する。
1928年(昭和3年)
わが国最初のオリンピック出場は昭和3年2月スイスのサン・モリッツでの第2回大会から参加、山ノ内町出身の竹節作太(飯山中学・早稲田大学)が参加し、アジアで孤立していた日本スキー界が最初に接した世界のスキーであった。
(竹節選手は距離競技に参加、結果は50kmで26位、18kmで30位と世界との隔たりは大きかった。またワックス面や走法の違い、スキー材など新しい知識が参加により収得される)

湯の丸のスキーは大正7年にドイツのウインクラが温泉を訪れ、湯の丸山でスキーの滑降をしたのが発祥と言われております。
その後昭和3年に鹿沢温泉の主人の小林亀蔵氏により湯の丸山の山麓にゲレンデが開設された。
この時代のスキーヤーは都会の上流社会のごく限られた人達であった。本格的にスキー場が開発されたのは昭和36年の(株)湯の丸観光開発が出来てからであります。上質なパウダースノーは内地ではめずらしいと開発当時招いた猪谷六合雄氏や片桐匡氏らの発言に勢いがついたといわれ、37年に第1リフトとそのゲレンデを開発し、引き続き第2リフトを、そして46年にプリンスゲレンデに第3リフトを架設する。

野沢温泉の日影スキー場に当時としては珍しい大規模な50m級のジャンプ台が建設される。
翌年スキー王国ノルウェーからヘルセット中尉を監督とするスキーチームが訪れ、本場のジャンプを見て、日本のジャンプスキー界に大きな足跡を残した。

細野山岳スキー倶楽部が設立
(白馬細野の地元ガイド12名で設立し、ガイドの資質の向上とスキー技術の錬成を誓い合い。やがてこの組織は地域を包含する大きな組織となり、スキー小屋の建設やスキー場開発を進め、今日の八方尾根スキー場の基礎を作る。)
1929年(昭和4年)
ノルウェーのヘルセット中尉一行が志賀高原をスキー視察に訪れ、「東洋のサンモリッツ」と賞賛。

(昭和4年2月、スキー王国ノルウェーからヘルセット中尉を監督とするスキーチーム来日、2名のジャンプの名手も同行し、札幌、小樽、赤倉、高田、野沢を廻り平穏村上林温泉に到着。翌日午後1時から上林で模範ジャンプが行われる予定ですが、

その前にスキー登山を敢行し、十二沢、波坂、沓掛茶屋を経て、一行は旭山に登りましたが、その日は山頂附近は粉雪の快晴に恵まれ、志賀の山々は美しく輝き、日本アルプスを始めとする四方の山々は雲一つなく、絶景そのもので、ヘルセット一行らは「ここは東洋のサンモリッツだ」と絶賛したと言われております)

かくして「東洋のサンモリッツ志賀高原」は命名されました。


志賀高原、前山から望む北アルプス


H・シュナイダー主演の映画「スキーの驚異」が長野の相生座で上演される。
野沢温泉スキー倶楽部が全日本スキー連盟に加盟。
大町スキー倶楽部創設。

1930年(昭和5年)
H・シュナイダー氏による2本杖スキーの披露が菅平と野沢で行われる。

(オーストリアのスキーの名手、ハンネス・シュナイダーは高速アルペンスキー・アールベルグ・スキーの完成者で、特にシュナダーが主演した映画「スキーの驚異」(映画史上最初のスキー映画)は大きな反響を呼びヨーロッパにおいては有名人となっていた。日本には成城学園の招きで昭和5年の3月に来日し、19日、20日に菅平で講習し、23日、24日に野沢で講習会が開かれた。

菅平では模範滑走として根子岳山頂から滑り、最後にフルスピードにてホッケ姿勢を保ちつつ直滑降にて山を下り、しかも途中拍手にて讃える人あるごとに、クリスチャニア・シュウングを以てそれに応えながら、滑り下りたという。

野沢温泉では70余名の講習員を対象に行われた。全制動滑降、制動旋回、制動滑降、制動クリスチャニア、ジャンプトップ、ジャンプターンなど驚異的な講習会が行われた。また模範滑降では「急斜面を滑降して、すぐに登りのスロープとなるところで、シュナイダーの巨体は豆粒のように遥か下のスロープ上に現れ、矢よりも早く前のスロープを登り切った瞬間、鮮やかに180度の跳躍旋回をやって停止した」。
シュナイダーのこのとき持参した「鋼張スキー」は日本に最初に紹介されたエッジ付きスキーであった。(長さ2m28cm、鋼の幅8mm)
ハンネス・シュナイダーの妙技

クリスチャニア・シュウング

ジャンプターン

蓼科高原スキー場の開発が始まる。
小谷温泉スキーヒュッテ、細野スキー小屋、丸池ヒュッテなどが建設される。
1931年(昭和6年)
木曽福島スキー倶楽部設立

昭和5年福島町がきび尾地積を中心に開発し、木曽福島スキー場が発足をした。

中央線木曽福島駅から10kmの地点に位置し、名古屋鉄道局が国鉄山の家を建設するなど、中京方面のスキーヤーで賑わった。

昭和40年にはリフトも架設され、木曽駒高原スキー場として数々のスキー大会も開催される。昭和51年には公認のスキー学校も開校される

昭和43年頃の木曽駒高原スキー場


夜間瀬スキー倶楽部が設立され、高社山山麓スキー場を開発。

諏訪スキー倶楽部が結成
(上諏訪町主催の新スキー場視察霧ヶ峰登山が上田 貢氏を中心に、商工会および各新聞社社員によって行われた、霧ヶ峰は白一色に覆われ、絶好のスロープが延々と続いていた。報道関係者はこの大スキー場の発見に驚異の目を見開いていた。翌年の昭和7年に雪不足のため、上諏訪町にスキー場の体制を整えてほしいとの要望があり、町では急遽上諏訪スキー協会を設立し、スキー場の開発に着手する。3月にはスキー講習会も開かれ、霧ヶ峰は日本一のスキー場と絶賛される。下諏訪町でも上諏訪町に刺激を受け、和田峠八島湿原に、岡谷では塩尻勝弦に、北山では大河原峠蓼科温泉周辺に、米沢ではカボッチョ北斜面の開発に着手し、諏訪周辺のスキー場開発が活発化をする)

昭和9年には霧ヶ峰池にくるみにシャンツェが完成。その後スキー場開発は進み、数多くのスキー大会がこの霧ヶ峰スキー場で開催され、一般のスキーヤーにも人気となる。
そして昭和36年には白樺湖スキー場が誕生し、昭和40年には車山にスキーリフトが3基が建設され、食堂やホテルなどが完備され本格的なスキー場へと変貌してゆく。

昭和43年にはビーナスライン霧ヶ峰線が開通し、蓼科、白樺湖、車山、霧ヶ峰の沿線の各スキー場は活発な動きを見せ、各スキー場はリフトの増設に拍車がかかり、スキー場も賑わいを増す。

スキーヤーであふれる昭和10年頃の諏訪

昭和40年代の霧ヶ峰スキー場風景

菅平高原にこの年、レルヒ少佐に直接指導を受けた、高田13師団・58連隊長の堀内文治郎将軍は健筆家で昭和6年菅平高原スキー場に建立された「壽喜伊山神」の碑文を書かれております。
菅平高原に訪れた人達に幸せを呼び込むように、「壽」の文字がひときわ大きく書かれております。
1932年(昭和7年)
長野県スキー連盟の発足(日本スキー倶楽部長野支部)、全日本スキー連盟に加盟する。
霧ヶ峰スキー場の開発が始まる。

藪原スキー場の開発が始まる。

昭和27年リフト開設当時の藪原スキー場
昭和7年地元の有志により、宿泊所「白樺の家」が建ち、翌8年には藪原国鉄山の家が建設される。

翌9年にはシャンツェが完成し、距離18kmの耐久の滑降大会などが開かれる。昭和27年にはリフトも建設され、眺望の利くゲレンデとして中京方面からの人気を集める

伊那谷でのスキーの始まりは昭和4年に、伊那町の西方横山部落に約5町歩の「横山スキー場」を開発したのが始まりで、伊那谷のスキー発祥の地といえます。昭和45年頃まで約40年間栄え、伊那谷のスキーヤーは大半がこのスキー場で育ったと言えます。交通の便がよくなり、バス停から40分、自家用車も入らない事や雪不足もあって昭和45年頃より衰退の一途をたどり、今はまぼろしのスキー場となってしまいました。

昭和28年頃の横山スキー場
(スキーヤーの服装が当時をしのばせる)

戦後賑わいを見せた大平スキー場

また伊那谷南部の中心地飯田から西方に大平高原があり、冬の積雪は多い年には2mにもなったというこの地に昭和6年にスキー場が開発され、雪の少ない南信地方のスキーの隆盛期を作り出した。
戦時中は閉場となったが、戦後昭和23年頃から再び滑る人達が増え、昭和31年にはスキー講習会も開かれた。その後は大平部落も過疎化が進み、27戸91人が集団離散し故郷を失ってしまった。
こうして全盛を極めた大平スキー場も次第に衰退し、昭和47年の冬より道路の除雪が中止され、休場のやむなきに至った。その後は近代化が進んだ治部坂スキー場に本拠が移って行った。今日では伊那谷南部唯一のスキー場として賑わっております。

第3回冬季オリンピック(アメリカ・レークプラシット)に日本からは岩崎三郎(新潟県出身・飯山中学・早稲田大学)が派遣される。
1933年(昭和8年)
飯綱高原にスキー場開発の気運が高まり、前年の昭和7年に入坂スキー場が開発され、昭和8年には大平スキー場が開設され、翌年の昭和9年には長野スキー協会主催により第1回の大会が開催される。
その後開発が進み昭和11年には4kmの滑降コースと50m級のジャンプ台が新設され、翌年には第5回長野県スキー大会が県下の名選手がを迎えて盛大に行われた。
これにより飯綱の大平スキー場は一躍その名を全国に知られるようになりました。
1935年(昭和10年)
菅平に国民スキー学校が開校。
志賀高原が鉄道省国際観光局から国際スキー場に指定され、同地の冬季オリンピック誘致運動が始まる。
1937年(昭和12年)
昭和12年、白馬細野の民宿16軒が「山岳旅館」として警察の許可を得て、正式に営業を始める。

(昭和7年に大糸線が信濃森上駅まで開通すると白馬山麓へのスキー客の入り込みがぐっと多くなった。それまでは冬の4ヶ月間は佐野坂で交通はストップをして皆千国街道を峠越えをしていた。
列車が開通すると地元、国鉄の宣伝で団体客が入ってくるようになる。
当時細野には旅館施設はなく皆農家だったので、1軒で泊められるのは、せいぜい5人位の用意しかなく、多くの農家へ分散宿泊となった。その後毎年団体が来るようになり、正式に民宿の許可を取る事となる)

昭和14年には先に発足した細野山岳スキークラブ(昭和4年発足)とは別に20名の組織で「雪友会」を発足する。
昭和16年には黒菱小屋に併設をして山小屋を建設、ここで両会は合併をして「細野スキークラブ」と名称を変え、山小屋およびスキー場の経営を中心に地域の発展に貢献してゆく。

このころは日中戦争も勃発し、戦時下にありましたが、昭和15年には夏の白馬岳登山者は初めて1万人を越え、山案内人たちは多忙を極めたと記録に残っております。(1年に250日山案内したと)

白馬山麓を舞台とした映画「スキーの寵児」が福岡孝行氏により制作される。
1938年(昭和13年)
昭和初期、白馬連峰の遠見尾根、八方尾根、栂池から天狗原は山岳スキーヤーが自然の地形を求めて訪れていた。
そして山小屋が建設された、栂池から天狗原は山岳スキー場として賑わいを見せていた。

1931年(昭和6年) 神の田圃に早稲田大学山岳部が山小屋を建設
1933年(昭和8年) 栂池湿原入り口に白馬館が営業小屋を建設
1936年(昭和11年) 栂池湿原下に成城高校山岳部が「成城ヒュッテ」を建設

パウダーに遊ぶ


夕日を浴びて

昭和初期 白馬連峰栂池のパウダーに舞う」photoページへ

小谷村のスキーの始まりは大正7年に小谷温泉の山田寛氏が16歳の時、当時のスキーのメッカ赤倉で1本杖スキーを習得し、地域の小学校や青年たちに指導をして広まって行った。

小谷地域は大正時代より山岳スキーに人々の関心が集まっていた。小谷地区が本格的にスキー場の開発が始まったのは、昭和22年に大糸線に白馬大池駅が地元住民の要望により誕生した時からであります。
翌23年に川内地区の人達が鐘つき堂地籍に小規模なゲレンデを開発し「鐘つき堂スキー場」と命名し数戸が民宿を始めた。昭和35年に(株)白馬館がロッジを建設し、「白馬大池スキー場」と改名され、リフトが建設される。

昭和37年には(株)白馬観光開発により馬の背コースがが開発され、鐘の鳴る丘ゲレンデ、栂の森、栂池平と合わせて「栂池高原スキー場」として発展してゆく。リフトも順次増えてゆき、

昭和57年にはゴンドラリフト「イブ」が誕生し、1994年にはロープウェイが建設され、栂池自然園まで伸びてゆく。
1939年(昭和14年)
全日本スキー連盟の第1回目のバッジテスト、1級、2級が丸池と菅平で開かれる。

第1回白馬岳スキー滑降大会が開かれる(全長10kmで天狗原より落倉間)

昭和13年の12月に猪谷六合雄、千春(昭和31年、イタリア・コルチナダンペッツォオリンピックの回転銀メダル保持者)一家が乗鞍高原の番所に移住し、スキーのトレーニングの場として5シーズンを過ごす。
(乗鞍でのスキーの発祥は大正6年に当時飯山中学に在籍していた斉藤正人(白骨温泉元湯斉藤旅館主)が冬休みに、竹の一本杖スキーを地元で披露したのが始まりと言われております。一般化は大正13年頃からで昭和に入ると交通の便も良くなり、地元松本高校スキー部を始め、早稲田大学、明治大学、法政、東大の各大学の学生を中心としたスキーヤーが入り込み、山岳スキー場のメッカとして多くの人達に親しまれて来ました)

これら山岳スキーヤーブームに支えられて、昭和2年冬に鈴蘭小屋が開設され、昭和6年には冷泉小屋、昭和8年にはスキー小屋、昭和15年秋には位ヶ原山荘が開設され、乗鞍岳山岳スキーがよりいっそう人気化に拍車を掛けて来た。

スキー場開発も昭和36年には地元乗鞍観光(株)により、標高1500mの鈴蘭平より、標高1630mの上原(あわら)に向かって乗鞍A線リフト(全長680m)が架設され、次第にスキー場の整備が整い始めた。
昭和44年には標高1800mの鳥居尾根へ全長710mの第2リフトを架設、翌45年にはA線に併設の全長685mのB線を完成させた。その後もリフトの開発は続き、国設スキー場と地元スキー場とを結ぶコースは標高差500m、総延長距離4kmに及ぶ緩急自在な理想的なスキー場が実現。
これにより乗鞍はゲレンデスキーから山岳春スキー、夏の大雪渓サマースキーと長いスキーシーズンが楽しめる温泉郷となる。
1940年(昭和15年) 細野山岳スキー錬成会設立(現在の八方尾根スキースクール)
1941年(昭和16年)
野沢温泉スキー場において第2回SAJ指導者講習会が開催される。一般スキーヤーの指導に着手。

昭和15年頃のスキーの板
1946年(昭和21年)
長野県スキー連盟新発足。
県下スキー大会を開催(霧ヶ峰、野沢にて)
進駐軍、志賀高原ホテルおよび丸池スキー場を接収。
飯山、伊村スキー製作所、専業メーカーに。
1947年(昭和22年)

昭和22年、日本で始めて志賀高原丸池にスキーリフトが完成。(進駐軍によるもの)

その後日本人にも開放される。


日本で最初のリフト(志賀・丸池スキー場)

1947年(昭和22年)に八方尾根リーゼンスラローム大会が始まる。

(このリーゼンコースは細野地域と密接につながっていた福岡孝行氏の発案により、地域の人達と汗を流しコース造りに励み、完成をさせた。

大会コースは全長4,5km、標高差1030m、平均斜度16度、期門数58双で行われた。周辺地域からは大町スキークラブや小谷地区の人達の応援も得て行われた。
選手も小谷、大町、諏訪、赤倉、大阪、東京などから総勢105名の参加を得て、盛大に開かれた。スタートは黒菱の頭、ゴールは名木山下の神社の前とし、種目も個人及び団体競技とし、タイムにより黒、青、赤のバッジを授与する方式をとり、6分30秒までは黒、7分30秒までは青、それ以上は赤が与えられた。

以来60回を越える大スキー大会となり、多くの有名な選手を輩出している。アルペン競技の大回転は昭和15年オーストリアのマルモラータで始まり、FISでは25年の大会から、またオリンピックでは27年の大会から取り上げられた種目であるが、福岡氏はこの種目の将来をいち早く察知しており、八方尾根がこのコース(全長5km、標高差1000m)に適している事を細野の人達に教え、説得して、また地元の青年たちの協力を得てコース造りに取り組んだ。

これはこの種目がオリンピックで取り上げられるよりも5年も早く、八方で第1回リーゼンスラローム大会が開催された事は福岡氏のスキーに対する理解と情熱があったからと深く感服する快挙といえます)


豪快な八方尾根を滑る リーゼンコースの下見を兼ねて(昭和10年代の頃)
1948年(昭和23年)
第3回国民体育大会冬季スキー大会兼
第26回全日本スキー大会を野沢で開催
1949年(昭和24年)
厚生省、上信越国立公園を指定。
上高地涸沢にてオリンピックの夏期強化合宿を行う。
神代スキー場が開設される。

御岳スキークラブが結成される。
(標高3063mの御岳山は信仰の山として栄えて来た。裾野は広く古くからの採草地があり、高地のため冬は早く、積雪は2mを越す。この草原で昭和になるとすぐ王滝村の有志がスキーを始めた。昭和12年には御岳ダウンヒル大会が始まり、スキー講習会もたびたび開かれた。昭和36年にクラブの要望によりリフトが建設され、村営リフトとして村内外から多くのスキーヤーが来場するようになる。その後もスキー場開発は進み、昭和45年には御岳5合目から6合半の国有林に国設スキー場が開発され、標高2000mまでに10本のリフトで結び、中京方面から本格的なスキー場として人気を集める)

昭和11年に開かれた木曽中学スキー大会

御岳スキー場におけるスキー講習会
1950年(昭和25年)
野沢温泉スキー場に第1号のリフトが完成。
菅平宮前ロープトウ建設、全長270m。
1952年(昭和27年)
丸池スキー場が進駐軍による接収が解除され、長野電鉄が丸池スキー場及びスキーリフトの払い下げを受ける。
丸池スキーハウス第1リフト営業開始

第1回全国高等学校スキー大会が群馬県水上で開催。下高井農林高校が男子総合優勝。

白馬西山スキー場開設。同時にリフトも開設し白馬山麓のスキー場開発が続く。(リフト開設は日本で5番目で木柱であった)
1953年(昭和28年)
霧ヶ峰スキーリフト、強清水に建設
猪谷千春アメリカに渡る
1954年(昭和29年)
第9回国民体育大会冬季スキー大会を野沢で開催
菅平スキー場発足30周年記念雪祭が開催される
1955年(昭和30年)
志賀高原で第1回ジャイアントスラローム大会が開催される。
菅平太郎リフト建設、全長600m。
1956年(昭和31年)
イタリアのコルチナダンペッツオで開かれた第7回冬季オリンピックに日本から猪谷千春選手と杉山進選手が出場し、猪谷千春選手が見事2位となり、銀メダルを獲得する。(優勝は3冠王に輝いたトニーザイラー氏)

この年白馬岩岳に白馬高原新田スキー場が誕生する。その後昭和41年に東急資本を導入して(株)白馬観光開発を設立し、地元では(株)岩岳観光を設立し、両者の協力で開発し、岩岳スキー場は全国的にその名が知られて行った。特に学生のスキー大会においては確固たる地位を占めて行った。

北城村と神城村が合併し白馬村となる。
1957年(昭和32年)
志賀高原で第35回全日本スキー選手権大会アルペン競技が開催される。

(志賀高原は昭和20年代の後半から自力でのスキー場開発を行うために「和合会方式」を取り入れ、スキー場開発、スキーリフトの増設、宿泊施設の増強とスキーブームに乗り、開発のテンポが早まって行きました。
昭和20年代にはスキーリフトはわずか3本にすぎなかったが、30年から34年の5年間に12本、35年から39年に15本、40年から44年に12本、45年から48年に15本と言うように急速に数を増やして行った。それにより競技スキーが可能なバーンが生まれ、一般スキー万能に始終していた志賀高原にも、競技スキー場としての機運が高まり、この第35回全日本スキー選手権大会アルペン競技を機に、アルペンスキーのメッカとして名声が高まって行った。)

白馬佐野坂スキー場が地域の人達による開発が行われ、スキー場として発足をする。

八方尾根空中ケーブルが架設される

細野地区と黒菱をつなぐ一大プロジェクト
白馬村ではこの年に東急資本の導入が実現し、細野部落より八方尾根黒菱まで空中ケーブルが架設される。

当時としてはまさに大事業で、総工費は1億数千万円となり、地元村民はもとよりスキーヤーの人気の的となり、乗車には長い行列も出来ました。これを機に白馬山麓のスキー場は大きく変貌をしてゆく。

1958年(昭和33年)
長野電鉄管内で正月3ヵ日の乗車人員が55万人となり、新記録となる。
その後30年代は爆発的なスキーブームが訪れる

混雑する野沢温泉スキー場(昭和33年頃)

賑わう志賀・熊の湯スキー場(昭和35年頃)

オーストリアのルディ・マット氏によるスキー講習会が万座や細野で開催される。
(ルディ・マット氏はサンアントンのアーベルグスキー学校長でハンネス・シュナイダーの弟子17人中1番の後継者で後にトニー・ザイラーなど多くの指導者を養成をした)

横手山リフト架設。熊の湯まで冬季バス運行。
菅平でダボスリフト完成。
八方尾根でスキーケーブル運行開始。
八方では「細野スキー研究会」から「細野スキー学校」に名称を変更して活動の幅を広げる
1959年(昭和34年)
白馬東急ホテル完成。
菅平裏太郎にTバーリフト完成、全長440m
1960年(昭和35年)
五輪アルペン3冠王、トニーザイラーによるスキーブームとなり各スキー場は満員状態となる。
志賀高原で第15回国民体育大会スキー競技会が開催
菅平で第1回シュナイダー記念大会を開催。
八方尾根スキー場において第1回全日本選抜アルペン大会が開催される。
飯山市戸狩スキー場に第1リフト完成。

昭和35年、この年に以前からあった神城スキー場のとなりに飯森スキー場が出来、地形的に見ても一体となって進めるべきスキー場が別々に開発がすすんだことに問題があり、昭和45年に外部資本の導入と同時に、スキー場も「五竜とおみスキー場」として発足し、昭和48年には東洋では初めてのテレキャビンを架設し、スキーヤーの人気の的となった。
1961年(昭和36年)
軽井沢スキー場、我が国最初の人口降雪スキー場として開場

志賀高原の名声に刺激されて、志賀高原周辺の地域でもスキー場開発が始まる。上高井山田.七味、五色一帯を南志賀高原という名称を冠するや、夜間瀬、須賀川地域も北志賀高原と名称し高社山や竜王山山麓一帯が開発され、木島平スキー場、夜間瀬スキー場や竜王スキー場が誕生をする。40年代後半には下須賀川地区の地元資本で高井富士スキー場も新設される。
1962年(昭和37年)
オーストリアのヒンターゼア、飯山スキー場で実演
フランスのエミール・アレー、菅平で実演
白馬山麓スキー学校が設立
1963年(昭和38年)
第41回全日本スキー選手権大会アルペン競技が八方尾根スキー場で開催される。

1963年(昭和38年)にオーストリアのクルッケンハウザー教授のスキー講習会が北城村の咲花スキー場で3月7日から9日まで3日間開かれ、日本から多くのスキー指導者が参加し、後のスキー技術の振興に大いに役立ったと言えます。

戸隠に国設村営戸隠スキー場が開設される。その後怪無山やメノウ山に向けてスキー場開発とリフトの増設が始まる。
1964年(昭和39年)
第1回全日本スキーデモンストレーター選考会が八方尾根スキー場で開催される。
1966年(昭和41年) 蓼科牧場を中心として蓼科山の中腹に広がる白樺高原に昭和41年にスキー場として本格的なリフトが建設される。標高差300m、夏冬兼用のリフトが2基、延長1104m、面積37ヘクタールの「白樺高原国際スキー場」が誕生、良質な粉雪に恵まれるこの高原が一躍クローズアップされる。

この蓼科牧場リフトはスキー客の他に、夏は高原の散策や蓼科山への登山、そして長野県が明治100年を記念して設置した御泉水自然園への足としても利用され、年間では、延べ60万人の人達に利用されました。

また昭和51年には立科町の手により、白樺高原の一角である八子ヶ峰に「しらかばスキー場」が開設され、標高の高さから4月上旬まで滑れる。また眺望も良く、眼前には蓼科山と八ヶ岳連峰を望み、遠くは美ヶ原から南北両アルプスなど360度の眺望が開け、最大斜度35度を越える斜面の滑降は、スキーの醍醐味が充分に味わえる。
1968年(昭和43年)
第23回国民体育大会冬季スキー大会を白馬で開催。
第10回冬季オリンピック記録映画「白い恋人たち」がテーマ曲と共に大ヒットとなる。

昭和40年頃の八方黒菱小屋付近
1971年(昭和46年)
野沢温泉村がオーストリア.サンアントン村と姉妹村提携調印
北野建設スキークラブ創設。
白馬村岩岳に会員制のスキー場が開かれる。
1972年(昭和47年)
冬季オリンピック札幌大会が開催
八方尾根で第50回全日本スキー選手権大会アルペン種目を開催。
野沢温泉にオーストリア国立スキー学校、学校長のクルッケンハウザー一行を招待
安曇村、スイスのグリンデルワルド村と姉妹村提携調印。

藤田観光(株)により斑尾高原スキー場が開場される。
1973年(昭和48年)
山ノ内町、アメリカのサンヴァレー市と姉妹村提携調印
白馬五竜に国内第1号のゴンドラリフト「白馬テレキャビン」が登場。

白馬五竜に日本最初の「テレキャビン」登場
白馬五竜スキー場山麓から、標高1676mのアルプス平まで標高差700m、長さ2013mの「テレキャビン」が完成する。

標高1676mのアルプス平まで8分で結び、画期的な機動力が生まれる。
1976年(昭和51年)
長野県スキー連盟がアルペンスキーヨーロッパ遠征
志賀高原スキー場にゴンドラリフトが登場
野沢温泉スキー資料館完成
菅平はこの年にスイスのダボスと姉妹都市提携を結ぶ。
1978年(昭和53年)
第33回国民体育大会冬季スキー大会(やまびこ国体)が野沢温泉で開催。全国から大会史上最高の42都道府県の選手団1950人が参加して行われた。開会式には常陸宮殿下もお見えになり、ご祝辞をいただき、大会の幕が切って落とされた。
長野県は男女とも総合優勝をして大健闘を見せた。
1979年(昭和54年)
野沢温泉スキー場、日影ゴンドラリフトが登場
1981年(昭和56年)
第1回全日本フリースタイルスキー選手権大会を志賀サンバレーで開催。
1987年(昭和62年)
第42回国民体育大会冬季スキー大会を白馬で開催。
志賀高原を舞台にしたロケ映画「私をスキーに連れてって」とその主題歌でスキーブームが到来。
「私をスキーに連れてって」が昭和62年(1987年)に上映され、歌と共に爆発的な人気となる。
歌はユーミンこと松任谷由実の「サーフ天国、スキー天国」「恋人がサンタクロース」「A HAPPY NEW YEAR」「ブリザード」などの曲が映画の中に盛り込まれ、若者の心を掴んだ。
「私をスキーに連れてって」の映画版動画へ
私をスキーに連れてってNO1
私をスキーに連れてってNO2
私をスキーに連れてってNO3
私をスキーに連れてってNO4
私をスキーに連れてってNO5
1988年(昭和63年)
FIS・88フリースタイルスキーワールドカップが斑尾高原で開催される
1989年(平成元年) FIS・89ワールドカップ志賀高原大会が開催される。
1991年(平成3年)
長野冬季オリンピック開催が決定。
1992年(平成4年)
長野県内スキー利用者、約2200万人が県内のスキー場に訪れる
第16回冬季オリンピック、フランス.アルベールビルにおいて日本のスキー複合団体が金メダルを獲得。日本選手における初の金メダルとなる。(荻原健司、河野孝典、三ヶ田礼一選手の3名)

白馬ジャンプ競技場竣工
1994年(平成6年)
第17回冬季オリンピック、ノルウェーのリレハンメルにおいて日本のスキー複合団体が1992年のフランス.アルベールビルの金メダルに続き連続の金メダルを獲得。日本選手における初の快挙となる。(荻原健司、河野孝典、阿部雅司選手の3名)
河野孝典選手(野沢温泉クラブ)は複合個人でも銀メダルを獲得する
1995年(平成7年)
第15回インタースキーが野沢温泉スキー場で開催される。
白馬村はオーストリアのレッヒ村と友好提携を結ぶ。
1997年(平成9年) 白馬村でFISワールドカップが開催される(長野五輪全種目が行われた)
1998年(平成10年)
第18回冬期オリンピック、長野大会が開催される。
日本チームは白馬での開催のジャンプ団体(原田、舟木、岡部、斉藤選手の4選手)で感動の金メダルを獲得、個人ラージヒルで舟木和善選手が金メダル、原田雅彦選手が銅メダルを獲得。またノーマルヒルでは舟木和善選手が銀メダルを獲得する。
女子モーグルで里谷多英選手が金などで5個の金メダルを獲得。
長野県出身のモーグルの上村愛子選手が7位入賞となる。

男子団体ジャンプ金メダル

女子モーグル 里谷多英選手金メダル
2006年(平成18年)
五輪アルペン3冠王のトニーザイラー氏が来日。
第60回八方尾根リーゼンスラローム大会のゲストとして招かれる。
2008年(平成20年)
白馬を舞台としたロケ映画「銀色のシーズン」が公開される。
2010年(平成22年)
バンクーバーオリンピックが開催され、白馬村出身の女子モーグルの上村愛子選手が4位入賞となる。
2011年(平成23年)
日本においてスキー発祥100周年を迎える。

資料提供:長野県・長野県スキー連盟・白馬 山とスキーの総合資料館・野沢温泉スキー博物館および各市町村よりご協力をいただきました。

長野県スキー発祥100周年記念「長野県スキー100年の歴史」 制作 -信州の旅.com-

「長野県スキー発祥100周年」にあたり長野県のスキー100年の歴史を語る場合、あまりにも膨大な資料となり、すべてを詳細に掲載する事は不可能に近いものがあり、主な事項を掲載いたしました。またスキー大会も初期の段階から掲載することもあまりにも膨大な資料となり、多くは省かせて頂きました。
詳細に付きましては各市町村が制作した「スキーの歩み」や「村史」などがあります。また長野県スキー連盟が発刊した「長野県スキー史」や「長野県スキー連盟50年史」などがありますので詳細に付きましてはそちらをご覧下さい。

「長野県スキー発祥100周年記念」トップページへ


「画像で見る長野県のスキーの変遷」のページへ

著作権法により全ページ保護されています。写真、ファイル等の無断複製を禁じます。