上高地 徳澤園(氷壁の宿)
紅葉の徳沢
上高地徳沢の氷壁の宿・徳澤園は広々としたテント場と春から秋にかけての季節の輝きが眩しく感じられる。
標高1700m附近に位置するため、夏でも冷涼な気候となり、上高地散策やトレッキング、登山者に人気の宿となっております。
古くは明治の中頃、上高地に牧場を開いたのが、後に登山者のための休憩施設となり、その後昭和に入り戦後より本格的な宿として発展してきました。
徳澤園 正面玄関
徳澤園の歴史
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徳澤園の前身は明治18年に上高地の今の河童橋右岸に牧場を開いた事から始まる。
・明治39年に株式会社に変更。代表取締役に上条百次良氏が就任する。
・大正4年に焼岳の大噴火が起こる。
・昭和2年に釜トンネルが開通。
・昭和4年 牧場を徳沢に移す。(最高時は牛馬が約400頭近くまでいた)
・昭和9年北アルプス一間を中部山岳国立公園に制定。上高地まで小型バスの運行が開始される。
登山者の増加に伴い、牧場の閉鎖を命じられ、ついに牧場の閉鎖となる。
国有林を管理する営林署では登山者の休憩、宿泊所の必要性を考えるようになり、牧監小屋を登山者の休憩所に転用。その営業権を当時の代 表取締役の上条喜藤次氏に与える。
・昭和25年に「徳澤園」は旅舎として本格始動に入る。
・昭和31年に小説・「氷壁」(著者 井上靖氏)の連載が朝日新聞で始まり、登山ブームが始まり、上高地は空前の賑わいとなる。
・昭和50年に県道上高地戦のマイカー規制が始まる。
・平成5年に現在の建物に改築。(四代目 上条敏昭氏のとき)
氷壁の宿の由来
昭和30年1月に厳冬期の前穂高岳東壁に登ったクライマー若山五郎氏が岩場でナイロンザイルが切断し、墜落死するという事故がおきました。当時ナイロンザイルは、それまでの麻ザイルに比べて軽量で扱い易く、強度も優れていると言われておりましたが、同様の切断事故が3件連続発生し、ナイロンザイルの安全性が疑問視されておりました。
墜落死した若山氏の兄、石岡氏らが、ナイロンザイルの安全性を主張する国立大学の著名な教授たちを相手取り訴訟を起こすが、不起訴になったため、公開質問状で追求する。それが新聞などに取り上げられ、ナイロンザイル事件として知れ渡る。
小説「氷壁」の著者・井上 靖氏は昭和31年の山友と穂高岳に登り、その際その事故を知る事となり、小説「氷壁」を書くきっかけになったと言われております。
その小説の中で、墜落死した小坂氏とザイル仲間であった魚津氏が真相を突き止めようと、決死の単独行を決行する。
大自然の雄大さと都会の雑踏を融合させ、男の友情と男女の恋愛を完璧な構成のもとにドラマチックに展開させた長編小説。
墜落死した小坂の妹、かおるは魚津氏を慕い結婚の約束をしており、魚津氏の山行を徳沢小屋(小説では徳澤園を徳沢小屋と呼ばれておりました)で待つというクライマックスシーンが印象に残る小説です。徳沢小屋は小説の中では数回に渡り登場します。
その頃より徳澤園は「氷壁の宿」または「かおるの待つ宿」と呼ばれるようになったと言われております。
1階 フロント
談話室の薪ストーブ
談話室
白炭の湯への入り口コーナー
白炭の湯
2階 客室廊下
1階 食堂入り口
食堂風景
徳澤園ある日の夕食
徳澤園の部屋のタイプ
・大部屋
・大部屋カプセルルーム
・和室個室ルーム
・洋室個室ルーム
・洋室特別室
ユニークなカプセルルーム
徳澤園テント場奥のニリンソウの大群生地
徳沢園テント場より朝の明神岳
紅葉の徳沢
色付く徳澤園のテント場
上高地情報
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アクセス
[徒歩]
上高地バスターミナルより約2時間
お問い合せ
上高地インフォメーションセンター 0263-95-2433